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- 2023.07.11 Tuesday
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昔むかし、『ノストラダムスの大予言』 にビビッていた
そんな子供の頃、“ツタンカーメンの呪い” についても
何かで読んで怖いよ〜と思ったあたりから、古代エジプト
に興味を持ったような気がします。
そして、その後、遺跡に描かれている不思議な絵や、
ピラミッドの配置など、当時の人知を超えたような
古代エジプトの謎に魅かれて、WEB制作の仕事の合間、
吉村作治先生監修の 『アンク』 や、パズルゲーム
『シークレット・オブ・ルクソール』 などにハマり、
研鑽に勤め(仕事からの現実逃避ともいう)、パウロ・
コエーリョの 『アルケミスト』 を読んで感動し、
エジプトへの思いを募らせていったのでした。
キッカケはオカルトかい!
(『アンク』 は1の方が好き。ピラミッドの大回廊で盗賊を追いかける展開も)
ツタンカーメンの呪いについては、昔から気になることを
メモしていた大学ノートの一冊に残してあるほどの恐怖か
興味を感じていたようです。
ツタンカーメンの墓を見つけたハワード・カーターに
出資してくれていたカーナヴォン卿がまず蚊に刺されて
亡くなりました。病に伏しながら彼が 「ツタンカーメン」
の名を口にしていたことから呪い説がスタート。
その後、カーナヴォン卿を看護していた女性が亡くなり、
そこまではカーナヴォン卿から移されたのかなとも理解
できるのですが、数カ月後に、エジプトの発掘現場に
行ったわけでもないカーナヴォン卿の弟が謎の死を遂げ、
ますます呪い説に拍車がかかっていったのでした。
カーナヴォン卿に同情を禁じ得ないのは、彼が死ぬ前に
あの見事な黄金のマスクを見ることができなかったことです。
発掘のためのお金は彼が出したのにね。。。
(「エジプト考古学博物館」 の黄金のマスク。すっげーキラキラ)
さらに、今度は実際にエジプトで発掘しまくっていた
カーターを呪いはスルーして、彼の秘書とその父親が
立て続けに亡くなったのでした。
呪いはそれで終わらず、カーターの友達が原因不明の
死を遂げ、次がちょっと怖いのですが、カーターと
一緒に発掘に携わっていたメイス氏が 「死者の間」 を
開けようとしたら突然死。そういうこともあって、
王墓内の毒ガス説もあります。カーターはここでも
毒ガス耐性だか、呪いバリアがあったのか健在!
(王墓62番にあるツタンカーメンのミイラ)
同じく、「死者の間」 の研究をした考古学者が
今度はなぜだか自殺。ちょっと貞子っぽい展開に。
また、ツタンカーメンのミイラのレントゲン撮影に
携わった技士も、あっという間に死亡。
ツタンカーメンの墓を発掘した1922年から、しぶとく
発掘を続け、1939年に64歳で病死したのでした。
私としては、墓所内の疫病か毒ガスだか、本当に呪い
だったのかもしれないけれど、それらを跳ね返した
ハワード・カーター氏の謎のパワーに畏敬の念すら
感じたのでした。
(中央の頭でかいのがツタンカーメン。手前は石棺)
どちらにせよ、彼が作業小屋の下からツタンカーメン
の墓を見つけたのも、カーナヴォン卿に対しての
“泣きの1回” という背水の陣だったこともあり、
なんやかんや山あり谷ありの人生を送った人では
ありましたが、彼の一途なパワーに脱帽です。
おかげで、あの驚くほどピッカピカの黄金のマスクも
見られたし、王墓内の美しい壁画を見ることが
できるのですから…。
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◇【検討ポイント1】 エジプトの見学地は入口から遠い
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◇【エジプト観光1】 やはりクライマックスはピラミッドで!
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◇アルケミストの如く、ピラミッドに誘われて―
(http://nureinmal.jugem.jp/?eid=191)
明治時代の書物や祖父の 「軍隊手牒」 とやらが、
父の部屋の堆積物の古い地層から出てきました。
ただし、この 「軍隊手牒」 は昭和初期の物の
ようです。
手帳の外側は布製で、後ろに足袋のこはぜのような
物が付いていて、それを開けると薄くてヨレヨレ
しているけれど、キラキラした成分が含まれた紙の
手帳となっていて、全24ページ!
袋の表3部分には、当時は家族の写真でも入れたので
しょうか、小さなポケットがついています。
祖父は近衛兵で、外地に行かなかったせいか、
ヤフオクなどに出品されているのよりキレイな状態。
ページの下に 「大阪 和田彦太郎製」 と書かれて
いたので、ネット検索したらドドッと 「軍隊手牒」
の情報が出てきたので、軍隊御用達の印刷会社
だったのかもしれません。
24ページの内、前半はなぜか赤い文字、後半は
黒い文字で印刷されています。
勝手に推察するならば、前半は明治・大正・昭和の
天皇による 「軍人勅諭」 が書かれているので、
当時は超ありがたいお言葉だったから差別化したの
ではないかと…。
色が切り替わるのは、「勅諭」 から 「勅語」 に
移行するページなので、あながち推察は外れて
いないのではないかと思われます。
「勅語」 に続いて、「軍隊手帳に係わる心得」 が
7項目ありました。この手帳を丁寧に扱うことや、
破損紛失しないように書かれていましたが、戦死
された方たちからすると、かなり無理な指示。
第二次大戦で多くの人が、兵站を絶たれて、武器も
まともに与えられず、戦死ではなく餓死や疫病で
亡くなったことを考えると、超ブラックな大本営!
(個人情報の所だけ、雑にリタッチ。左上が外套や軍服、靴のサイズ)
ようやく、17ページ目から個人情報へと突入して、
所属連隊や階級、住所や身長、軍服や靴などの
サイズまで記載されています。
近衛兵とは聞いていましたが、正しくは近衛砲兵部隊
第七師団の砲兵二兵卒(?)だったらしいと知りました。
途中で、伍長になったりしていたみたいです。
ただ、写真では軍服で馬に乗っていたのに、砲兵?
その次のページからは、諸に個人情報なので割愛。
入隊後の訓練や、特別恩賜金としてもらった金額や、
2年おきに召集(多分、皇居というか宮城)されて
いたようです。多分、騎乗写真はその時の物でしょう。
その写真には、東京都世田谷にあったらしい
「陸軍御用 塚本写真技術部」 の名が入っていました。
ネットで調べたけれど、影も形もない!
探索する糸口が、清々しいほどきっぱりと断たれて
いて、GHQの差し金か!?
ただ、騎乗写真が近衛部隊の閲兵式か何かで、祖父が
上京して撮影した説は多少信憑性が出てきました。
一つ気になるのは、「軍隊手牒」 の後半にある
除隊欄に何も書いていないこと。満役の除隊や
公傷・病、戦死や病死の除隊など、3項目に分かれて
いますが、祖父は現役のまま戦後を迎えたのかな?
それと、職務履歴に赤紙を発行する仕事も任されて、
あれが祖父の戦後の人生に大きな影を落とし、
家族全員の家計も火の車になったのですが、記述が
ない! 極秘任務だったのでしょうか。
温和な人だったので、好きでやった仕事ではないと
思うのに、時代の理不尽を感ぜざるを得ません。
祖父は、戦後、公の仕事から退き(というか禁止され)
戦争の話をすることなく亡くなったのですが、この
手帳に書かれている、謎の個人情報部分を解読して
くれる人を探して、そのルーツを探りたい衝動に
駆られています。
家の片づけをしていたら、8ミリフィルムのディズニー
ホームムービーが出てきました。
おそらく、父が英語研修生を連れて行っていた頃に
本家・ディズニーランドで買ったものかと推察され、
それだと1960年代の物ということになります。
なんと、1ドル360円時代に22ドルも払って買って
いて、約8000円? 子供への土産買えよ!
海外研修に行って土産買ってもらった覚えない!
パッケージのシンデレラ城がメッチャしょぼい!
と思わず、8ミリフィルムに八つ当たり。
とにかく、何がテーマの8ミリなのか気になります。
タイトルは 「A DAY AT Disneyland Extra Special
long」 となっていて、ちょっとフィルムをビローンと
伸ばしてみましたが、肝心の動画に入るところまで
行き着かず、そこまで引き出すには巻き取る物がないと、
回収しきる自信がありません。
さすが、Extra Special long!
でも、上映時間は15分くらいみたいですが…。
「ニューオーリンズ・スクエア」 が捜査のヒントに!
紹介文に 「ニューオーリンズ・スクエア」 という
日本のディズニーにも未だ作られていないエリアが
ドドーンと書かれていたので、ネットで調べたところ、
オフィシャルサイトに1965年オープンしたエリアだと
紹介されており、「カリブの海賊」 などがあるそう。
たぶん、ビアガーデンの提灯はないでしょうが…。
動画でチェックしたけれど、参考になる時期の物が
UPされていなかったので、さらに見たい気分に。
結構、キレイな状態だし、DVDにダビングできる技術
もあるみたいなので、捨てる前にやっておこうかな〜。
本来なら、他の8ミリフィルムと一緒に燃えるゴミ
直行便なのですが、ダンボの絵が描いてあるので
ディズニー映画マイNo.1のダンボを見捨てることが
できないのでした。
私が生まれて初めてみた映画はズバリ 『ダンボ』!
あの母親と引き離されておめめぱちぱちしながら
涙ぐむシーンは、『アナ雪』 や実写 『アラジン』
に勝るとも勝っているのです。
思ったよりも、DVDへのダビングは安いので、試しに
やってみようかな?
「仁徳天皇陵」 を含む 「百舌鳥・古市古墳群」 が
世界遺産登録されるようで楽しみですが、実際のところ、
宮内庁管轄の古墳群はなかなか学術関係者も入ることが
できなくて、「仁徳天皇陵」 すらほとんど研究されて
いないといったニュースを以前見た気がします。
このタイミングで、ちょうど父の遺品整理と、収集物の
時価を算出する作業をしている中で、昭和十年刊行の
「尋常小学国史 上巻」 が書棚の奥から出てきました。
ボロボロなので、BOOKOFFには引き取ってもらえないし
資産価値ゼロですが、第一章の天照大神から始まり、
第二章の神武天皇と続き、上巻だけで、一気に105代の
後奈良天皇まで行くというスピーディな展開です。
第五章に仁徳天皇とあったので、読んでみました。
母はそうした天皇崇拝的な教科書には、戦後に墨で
消すという作業があったそうですが、父の教科書は
全くそういった形跡がありません。
う〜ん、小学生の頃から人の言うことを聞かない
性格だったようで、「三つ子の魂百まで」 ですね。
それにしても、昔の教科書って、西暦じゃなくて
皇紀表記なので、いつだかわからんし、イラストの
下のキャプションがアラビア文字のように右からで
読むのに時間がかかるわい!
内容は簡単にまとめると、仁徳天皇は慈悲深い天皇
というお話しで、ワイルドの 『幸福な王子』 風。
「仁徳天皇が御殿から都を眺めていたら、庶民の
家の竈の煙が少ないのに気づき、3年間は税を
納めなくて良いと “おほせ出された” ため、自らも
質素な生活をして、皇居も次第に荒れてしまった」。
「その後は豊作が続き、竈の煙も多く立ち上る様を
見て天皇は喜んだ。人民も荒れ果てた皇居を整える
ために税を納めたいと願い出たけれど、天皇は
それを受け入れなかった」 と、ここまでは
『幸福な王子』 な流れです。
しかし、「人民は “なほ熱心にたびたび” 願い申し
上げたので、ようやく納税の許しが出た。
人民は “喜びいさんで、われ先にとはせ集まり、
夜を日についで、いつしやうけんめい” 工事に
励んだ」 とのこと。いずれも表現がくどめ。
その後も天皇は人民のため、農業の発展につながる
堤や用水池など公共事業を推進したので、世の中が
よく治まったというお話しでした。
(これは前方後方墳。古墳と埴輪は大好きです)
ピラミッドのように、大規模公共事業で領民に
仕事を与えたという点から考えると、あの大きな
大仙陵古墳はその象徴でもあるかな、などと
思ったりもしました。
Wikiを見てみたら、やはり大規模な土木事業を
行ったと書いてあったので、あながち帝国時代の
教科書も全くの神話ではないようです。
それとも、昭和初期からそれほど研究が進んで
いないということなのでしょうか。
私はこれまで仁徳天皇については、墓(古墳)の
ことしか知らずに、ボーッと生きてきたので、
今回の 「百舌鳥・古市古墳群」 のおかげで、
一つ知識が増えました。
予想通りと言いましょうか、モロッコ旅行記が長引いて
しかも未だ終わらず、唐突ですがちょうど1カ月前と
いう区切りなので、今日は名古屋の 「リニア・鉄道館」
について。セントレア空港に行く前に寄ってきました。
セントレアを選んだのは風水的な理由もありますが、
「リニア・鉄道館」 だけのために名古屋に行くのは
もったいないな〜という想いから。
どっちにしても、ぶっちゃけ、行きたかったのです!
(https://museum.jr-central.co.jp/)
名古屋駅から、名古屋臨海あおなみ線を利用して、
終点の 「金城ふ頭」 駅へ。降りたら 「レゴランド」
のホテルみたいな建物や倉庫しかない寂れぶり。
時間には余裕があったので、普通にゆっくり見学する
ことができました。
(水族館のような入り口を抜けると…)
大宮や京都ほど広くはないのと、何せ埠頭にあるため、
周囲のJR線を眺めるといったお楽しみはないものの、
通常の鉄道博物館にある車両展示フロアを見学する
前に、“シンボル展示” のフロアがインパクトあり!
照明を抑えた館内に、過去を表すC62、現在を表す300X、
そして、未来を表す超電導リニアMLX01-1が並んでいて、
「リニア・鉄道館」 のコンセプトがドドーンと伝わる
演出となっています。
2003年に。山梨リニア実験線で、当時鉄道の世界光速度
581km/hを記録した車両の中にも入れます。
「リニア・鉄道館」 のテーマは、鉄道の “高速技術”
にスポットを当てて、駅の看板とか、車両プレートとか、
そういった小物は “一応、展示しておきます” 程度で
とにもかくにも新幹線&リニアが主役なのです。
シンボル展示フロアを過ぎると、外光も入る車両陳列の
展示室となり、もちろんその中央は0系21形新幹線!
くりくりした目が愛らしい!
こちらは、写真スポットとなっていて、一人で行っても
撮影してくれる人がスタンバっていて、次々とファミリー
が撮影をしていました。
それもあって、もっと近寄りたいと思いましたが、
撮影の邪魔になるので、人が切れるまでうろうろ。
(300系の後ろにちょこっと見えるのが 「ドクターイエロー」)
車両展示は、向かって右手が在来線、主にレトロ系。
そして、左手にはずらっと歴代新幹線が並んでいます。
(0系の右は在来線が並んでいます。つい車両主役のピントに…)
個人的には300系までの流線形タイプが好きなので、
700系以降のカモノハシタイプはイマイチ盛り上がれず
残念です。JR東日本だとE2系が好きですね!
リニアと並ぶ目玉 「ドクターイエロー」
そんな歴代新幹線の後ろにさりげに並んでいるのが、
縁の下の力持ち・新幹線電気軌道総合試験車922形、
いわゆる 「ドクターイエロー」 です。しかもT3!
通常の営業列車と同じ速度での走行が可能なように
0系新幹線をベースに製作され、車内には各種の
測定機器が搭載されています。展示されている
車両は7両編成中の7号車として運転されたもの。
現在のメタリックな923形と違って、こちらもおめめ
くりくりで愛おしい顔立ちなのでした。
923形のスタイリッシュさに比べて、ややどん臭そうな
感じが、いかにも “新幹線運行の安全を支える” 感が
あるように思えるのは私だけでしょうか。
新幹線の線路、架線、信号を検査・測定するといった
「ドクターイエロー」 の役割や、各車両の装置など
図示されている展示もありました。
T4の車内バーチャル見学映像も傍らで流れていたり、
その周辺には、新幹線の安全運行のための作業機器も
展示されています。
シンボル展示を2階席でゆったりと
(映像はC62)
2階に上がると、ついセンターデッキで、1階の
展示車両が並ぶ壮観さを味わいたいところですが、
シンボル展示の方で、もう一度、蒸気機関車と
955形新幹線試験電車、超電導リニアを眺めると、
1階の目線とは違った景色が見えます。
(こんな感じで、ゆったり鑑賞できます。映像は300系)
背景の映像が目の高さになる、ゆったりシートに
腰かけて、歴史の流れをじわじわと体感でき、
映像もモノクロ静止画からカラーの懐かし映像、
そして近未来的なCG映像へと変わっていきます。
(リニアの試運転映像も)
つい同じ映像を3回も見てしまいました。
歴史の流れを感じつつも、時間の流れを忘れさせて
くれるような不思議な空間です。
(後ろに見えているのは、国鉄バス1号車)
もちろん、おすわりが本分のくまきちは、ここぞと
ばかりに、ゆったりシートにおすわりしたのですが
体が小さいので、映像しか見えないという…。
おすわりすることに意義があるってことで!
(白・黒・抹茶・あがり・コーヒー・柚子・桜…以外もあるがや!)
2階にはデリカステーションがあり、「ドクター
イエローランチボックス」「復刻・昭和39年新幹線
開業弁当」は想定の範囲内でしたが、「新幹線
きしめん」「ドクターイエローういろ」 には唖然。
しかも本格派の 『大須ういろ』 商品とは!
その後にモロッコ旅行がなかったら、おそらくどれか
買っていた気がします。
ということで、今日は 「リニア・鉄道館」 の新幹線
をメインにお送りしてきましたが、明日はその他の
展示を紹介いたします。
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◇「九州鉄道記念館」 の 「旧九州鉄道本社屋」 館内
(http://nureinmal.jugem.jp/?eid=3544)
東京ドームの 「野球殿堂博物館」 に行って来ました。
もちろん、イチロー特別展示狙いです。
(http://www.baseball-museum.or.jp/)
オリックス時代のユニフォームや、メジャーでの
マリナーズ、ヤンキース、マーリンズ、さらには
WBC日本代表のユニフォームなどを展示中。
入場料は大人600円でした。
「野球殿堂博物館」 は1959年オープンだそうで、
2019年は60周年のアニバーサリーイヤー。
ナイスタイミングと言えましょう。
てっきり、プロ野球関係の博物館かと思い込んで
いたのですが、野球の歴史や学生・職業野球、
日米野球やメジャーリーグ、侍ジャパンなど、
野球全般を幅広く網羅していました。
(スタンプも60周年記念仕様になっています)
収蔵品は実物や写真など、約4万点を所蔵している他、
野球を中心としたスポーツ関連図書も約5万点と、
レジェンド入りしたプロ野球選手のレリーフがズラッと
並んでいるだけではなかったのでした。
「野球の歴史」 コーナーには、正岡子規の野球愛や
彼が作った野球訳語、さらには肖像レリーフが並ぶ
野球殿堂フロアに 「新世紀特別表彰」 として、
あの有名な正岡子規の横顔レリーフもありました。
「アマチュア野球」 コーナーは、高校野球関係の
展示が充実しており、第100回大会で史上初の
2回春夏連覇した 「大阪桐蔭」 の寄せ書きがあり、
中日に入団した根尾くんの名も!
アマチュア野球コーナーはシアターを囲むように
コの字型のフロアになっていて、そこを過ぎると
ついに肖像レリーフで室内が茶色っぽく見える
野球殿堂フロアが広がります。展示の流れが劇的。
(このフロアの一番奥が 「イチロー特別展示」 コーナー)
肖像レリーフは、北別府と落合が並んでいるのに
ワクワクしたり、メジャーリーガーのパイオニア
とも言える野茂の下に、ライオンズにドラフト外
入団した秋山くんがあったりと、特に理由はない
けれど歓喜。
各選手の説明が書かれているのですが、秋山くんに
ついての経歴はじっくりチェックし、1989年の
“3割・30本塁打・30盗塁”トリプルスリー記録が
きっちり書かれていたので満足です。
そして、そんな野球殿堂フロアの突き当りと言うか、
フィナーレとして 「ありがとう イチロー選手」
コーナーがあるのです。ナイスな演出!
ってことで、明日に続く。
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NHK大河 『西郷どん』 は、『翔ぶが如く』 より
明治維新後が異様にスピーディで、西郷隆盛と
大久保利通の征韓論に絡んでの確執がやや薄め。
そもそも明治時代までの描写が長すぎた気も。
そんな西郷隆盛関係の史跡が日本橋人形町にも
あると、大河の 「よかろうかい」 の後に紹介
されていたので、知ってはいたけどいつでも
行けると思ってスルーしていた 「西郷隆盛宅跡」
に寄ってきました。説明板だけでした。
場所は、人形町寄りにある 「日本橋小学校・
幼稚園」 の入り口脇にあります。
(人形町から行く場合は、からくり人形に使われる鯨のオブジェが目印)
『京粕漬魚久 本店』 と、「鯨と海と人形町」 と
いうオブジェの間の道沿いにあり、江戸時代は
姫路藩酒井家の下屋敷があった場所だそうです。
(https://www.uokyu.co.jp/)
(同じ並びの角にあるのが老舗 『魚久』)
説明板には、1873年の「第壱大区沽券図」には、
「蛎殻町1丁目壱番/二千六百三十三坪/金
千五百八十六円/西郷隆盛」 という表記があり、
西郷さんが敷地内の長屋に約15人の書生を住まわせ、
下男を7人雇い、猟犬を数頭飼っていたことが記録
されているとありました。
岩倉具視を中心とした使節団が渡航中は、筆頭参議
として留守政府首班となって、学制・徴兵制度・
地租改正などの政策を実施したことも書かれており、
そういえば、大河も歴史の教科書並みの速さで、
それらの改革を単語列挙で流していたなと(笑)。
大河も一気に 「明治6年の政変」 に突入して、
西郷さんがいよいよ下野する展開になりそうな勢い。
ってことは、彼の人生、あと4年ですね。
(「日本橋小学校・幼稚園」 の校庭側)
「西郷隆盛宅跡」 がある 「日本橋小学校・幼稚園」
の校庭側には、「小網神社」 があって、11月28日、
9時から18時まで、「どぶろく祭」 が行われ、
強運厄除けの 「みみずく」 が限定販売されます。
そういえば、「小網神社」 には何度も来ていますが、
日が暮れてからの風景を見るのは今回が初めて。
向かって右手の神楽殿の明かりが風情あります。
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◇『西郷隆盛はなぜ犬を連れているのか』 で知ったトリビアいろいろ
(http://nureinmal.jugem.jp/?eid=3408)
◇日本橋人形町 『亀井堂』
(http://nureinmal.jugem.jp/?eid=968)
◇「宝田恵比寿神社」 の 「べったら市」
(http://nureinmal.jugem.jp/?eid=731)
◇日本橋周辺の金運UP神社!
(http://nureinmal.jugem.jp/?eid=2193)
◇日本橋 「福徳神社」 で宝くじ運UP!
(http://nureinmal.jugem.jp/?eid=2194)
◇日本橋 「福徳神社」 リニューアル!
(http://nureinmal.jugem.jp/?eid=2238)
◇2016年は 「小網神社」 鎮座550年!
(http://nureinmal.jugem.jp/?eid=2322)
◇「小網神社 萬福舟乗弁財天大祭」 は10月29日
(http://nureinmal.jugem.jp/?eid=3707)
門司港散策からスタートした北九州旅行関係も、今日で
ようやく終着点に辿り着きました。
関門エリアの北九州側で見た 「句塚」 なんて4月16日。
途中、リアタイのブログも挿入していたので、1カ月半に
及ぶ展開となってしまったのです。
まさに、「見るべきほどのことは見つ」 by 平知盛。
ラストにふさわしい壇ノ浦で締めることとします。
関門橋のたもとは、早鞆の瀬戸とも言われる壇ノ浦。
平家滅亡の歴史を今に伝える壇ノ浦を見渡せる岸辺は、
「御常(みもすそ)川公園」 として整備されています。
馬関でもあるので、平家と幕末が混在エリアです。
(躍動感ある銅像が見応えあり!)
砲台と共にどどーんと目立っているのが、源義経と
平知盛の像です。躍動感のある見応えのある銅像。
「平知盛というと、やはりドラマなら阿部寛さんが
一番印象的だったなぁ」 と思っていたら、すぐ後ろで
サラリーマン風の男性二人が、「どうせなら阿部寛の
手形でも銅像の所に置くといいんじゃね?」 とか、
私の心を読まれたような会話が成されていて、能力者
なのかと身構えてしまいました(笑)。
どっちにしても、猛将・平知盛の最期は劇的なシーン
なので、壇ノ浦で歴史に思いを馳せるのにはぴったり
だと思います。ちなみにサラリーマンのお兄さんたちの
意見に、私も1票。
銅像の近くでは、源平合戦の様子をあたかも見たように
臨場感あふれた口調で語る、昔ながらの紙芝居屋さんも
いて、ひと言ひと言に熱がこもっています。
壇ノ浦古戦場近くには、「立石稲荷大明神」 の鳥居が
斜面に続いており、こちらは、平家一門が都から下って
来た際に、「京都伏見稲荷」 から分祀したもの。
(対岸には、門司港レトロの一帯が広がっているエリア)
道を挟んで向かいには、しめ縄の付いた石が海辺にあり、
「立石稲荷大明神」 の名の通り、石と神社でワンセット
だと思われます。
下関方向へ西に向かって海岸沿いに行くと、壇之浦漁港。
ちょっと伊根の舟屋に似た造りで、母屋と船のガレージが
一体化した造りの家が並んでいました。
壇ノ浦周辺では 「赤間神宮」 がパワスポと言われていますが
私としては 「うーん、微妙」 という感じで、とくに
お呼ばれしなかったのですが、この壇之浦漁港は家と家との
隙間からこの船溜まりに出る、それほど目立たない場所に
あるものの、なぜか呼ばれてつい見学してしまいました。
「赤間神宮」 と私の波長が合わなかっただけかも?
我が家の父方は、源氏系列の加賀美氏の流れを汲んでいて、
苗字としては全体で78位ですが、長野県では堂々の4位
だと、「苗字由来net」 に書かれていました。
このサイト、面白し! ズバリ賞!
ってことで、そもそも平家とは相性良く無さげなのです。
(https://myoji-yurai.net/)
話戻ると、壇之浦漁港には舟屋のほか、堤防近くには、
漁師さんの安全を見守っていると思われる 「蛭子神社」
と、またしても神が宿っているに違いない石がありました。
蛭子は、イザナギとイザナミが国造りする上で、最初に
生まれた失敗作の子供ですが、ご利益は商売繁盛の恵比寿
に通じます。
なので、源平の昔のことはお互い水に流そうよと歩み寄り、
(加害者側ですが)「蛭子神社」 にも手を合わせました。
そして、壇ノ浦合戦で、二位尼に抱かれ、幼くして亡くなった
安徳天皇が祀っている 「赤間神宮」 へ。
入水する際、二位尼が幼帝に 「波の下にも都のさぶろうぞ」
と言ったとされることから、海の都をイメージした 竜宮城の
形をしているのが特徴です。
安徳天皇をはじめ、平家一門の墓が祀られています。
二位尼が幼帝と共に抱えて入水した三種の神器の内、
「八咫鏡」「八坂瓊曲玉」 は見つかりましたが、未だ
「草薙剣(天叢雲剣)」 は海の底に眠っています。
そこからまた少し行くと、海辺に突如、でっかい碇が。
謡曲 「碇潜(いかりかづき)」 をイメージした小さな
公園も作られています。
「碇潜」 は、平家一門の合戦の模様と、その最期を
描いた演目で、謡曲ではありがちな展開ですが、
壇ノ浦の古戦場を弔いに来た旅僧が乗り合わせた
渡し船の漁翁に戦いの様子を聞いていると、にわかに
漁翁が、実は自分は平知盛の霊だと語ったことから、
その僧は知盛の霊を弔うという展開。
「船弁慶」の類曲とも言える作品です。
謡曲って、大体、謎の人物が語り始めて、生前は
有名人で、その怨念や辛さを語って舞い、満足して
成仏していくという流れが多いですねー。
学生時代は 「風姿花伝ゼミ」 だったこともあり、
一応に有名作品の流れを頭に入れましたが、この
パターンが多すぎて、もはやカオスです。
平知盛の最期を描く舞台 『子午線の祀り』
平家物語でも、この平知盛テーマの作品は好きで、
『子午線の祀り』 は2回鑑賞しました。
1999年の 「新国立劇場公演」 は源義経が市川右近さん
(現・右團次)、『陸王』 のシューフィッターの人です。
そして、2004年の 「世田谷パブリックシアター公演」 は
源義経が尾上辰之助さん(現・松緑)でした。
平知盛役は、「世田谷パブリックシアター」 の芸術監督
でもある野村萬斎師です。
昨年も久々に 『子午線の祀り』 の再演がありましたが、
行けなくて残念。会員なのに…。
そういえば、ついでですが、野村萬斎さんはNHKドラマ
『蒼天の夢』 で高杉晋作役でした。吉田松陰役が
中村橋之助さん(現・芝翫)で、ベースは司馬朗太郎さんの
『世に棲む日日』 です。VHSビデオも買って、今でも
持っていますが、私のVIERA LINKでは今や見ることできず。
門司港と下関の散策リポートを書き終え、ちょっとした
解放感から脱線してしまいました。
「見るべきほどのことは見つ」 の心境で、明日からは
この2カ月間で読んで良かった小説についても書きたいな。
まずは、近年読んだ中でも、文章の美しさに浸ることが
できた 『羊と鋼の森』 ですね。
映画を観る前に読んでおいた方がいい作品と、映画の
世界を堪能してから原作との違いを楽しむ作品が
ありますが、この作品に関しては事前の読了がオススメ!
きっと、映画で描かれるシーンの意味が、より強く
伝わってくるに違いありません。
(http://hitsuji-hagane-movie.com/)
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山口県と言えば長州、長州と言ったら高杉晋作90%、
吉田松陰10%って感じです。
高杉晋作と言えば、「動けば雷電の如く、発すれば
風雨の如し、衆目駭然として、敢えて正視するものなし。
これ、我が東行高杉君に非ずや」 と伊藤博文に言わしめた
幕末の革命児です。
幼少のみぎり、大河ドラマで 『花神』 を欠かさず見て、
その後、司馬遼太郎さんの 『世に棲む日々』 を読み、
私の中の高杉晋作像が確立されました。
オテントサマ丸(丙寅丸)での戦いっぷりなど、陽気な
破天荒さも魅力ですが、自分が士族なのに、奇兵隊という
身分制度無視の軍隊を作った功績は、まさに選ばれし者!
…という前置きはさておき、JR下関駅の階段には、維新
150周年のイメージイラストとして、「長府功山寺」 にある
高杉晋作挙兵の像のシルエットが描かれていました。
日和山公園にも高杉晋作像がありますが、そちらは立像で
躍動感がないので、「長府功山寺」 の方が好きです。
日和山公園の像は、第二次世界大戦の時に金属供出で
潰され、備前焼きで製作された物なので、こうした
躍動的な像は難しいでしょう。ただ、備前焼きの大きさ
部門では日本一を誇っています。
下関駅の北には、高杉晋作関係の史跡が多数ありますが、
今回は見残していた新地町の 「高杉晋作終焉の地」 へ。
萩からスタートした旅の終わりを見ておかなくては!
桜山町には 「高杉晋作療養の地」 もあります。
(「開闢=かいびゃく」 という言葉は、高杉晋作で知った)
その途中には、「奇兵隊結成の地」 の石碑もあって、
そこに刻まれた説明によると、「長州藩を明治維新へと
推し進めたのは奇兵隊であるが、さらに明治維新を
解明する鍵が奇兵隊であるともいわれている。奇兵隊は
文久三年(1863年)六月、この地の廻船問屋白石正一郎家で
結成された。正一郎は結成と同時に入隊し、高杉晋作を
援けた。年令も、身分もまったく違う、二人のかたい
結びつきが奇兵隊を支えたということができる」 と
書かれていました。
また、説明書きには 「広く坂本竜馬ら諸藩の志士400人」
となっていて、それ、司馬遼太郎さんのキャラですが…。
「本陣伊藤邸址」 に続き、長州藩士以外は割とどうでも
いい感の第二弾でございました。
「高杉晋作終焉の地」 は、下関駅から700メートルくらいの
住宅街にあります。静かな住宅街にふさわしくない幟が突如
パタパタしているので、遠くからでもわかります。
(面白きこともなき世は、どうだったのかな?)
そこには、しっかりと高杉晋作の功績について誇らしげに
まとめられた説明板がありました。
それによると、「1863年6月、攘夷の決行で外国艦に砲撃
された下関を防御するため来関し、直ちに騎兵隊を結成。
奇兵隊は志があれば、武士以外の者でも入隊を許した
画期的な軍隊でした。1864年に8月には、欧米列強との
下関戦争の戦後処理にあたり、同年12月には 『長府功山寺』
で挙兵して、藩論を討幕へと導きました。1866年6月からの
四境戦争では、奇兵隊などの諸隊を率いて幕府軍を小倉口で
撃退しましたが、すでに病に侵されており、1867年4月14日、
新地の庄屋林算九郎邸の離れ家で没しました。数え年29歳。
遺骸は奇兵隊陣屋近くの吉田清水山に運ばれ、葬儀は
白石正一郎が祭主となって神式で行われました」 とあり、
“もっと、もっと彼の功績をPRしたいぞ” 愛に溢れていました。
(紙焼きをスキャンしたので暗い、萩の 「円政寺」)
萩の生誕地や 「明倫館」、吉田松陰と出会った 「松下村塾」、
奇兵隊挙兵の 「長府功山寺」 と 記念館もある 「東行庵」
など、いろいろ回りましたが、何となく実際の場所に行って
近くに感じることができたのは萩の 「円政寺」。
木戸孝允旧宅の並びにありました。
(http://www.tougyouan.jp/)
たしか 『世に棲む日々』 にも書かれていたと思いますが、
少年時代の晋作が、家族に連れられ、この寺にかかっている
怖い顔の天狗面を見せられたことで、物怖じしない性格を
培ったという躾エピソード。家族が連れていかなくても
歩ける距離なので、眉唾モノではありますが、どこか
それを信じたい気がする雰囲気で、一番印象的でした。
(http://www.hagi.ne.jp/kanko/onari_machi_05.html)
とにもかくにも、高杉晋作関係については自分の中でも
「見るべきほどのことは見つ」 という心境です。
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ふい〜、長期予報をチェックしたら、今週スカッと
晴れそうなのは今日しかないので、やむを得ず、
涙を飲んで、原稿書きをペンディングして、撮影に
出掛けました。
このところ、ご無沙汰の 「世田谷パブリックシアター」
ですが、今日はキャロットタワーの26階の展望ロビーでの
撮影からスタートし、世田谷公園や諸々の児童公園などを
回りながら、学芸大学駅まで歩き、ただ今ぐったり。
世田谷での撮影も全て終わっていないので、そちらは
また今度にするとして、このぐったり感にぴったりな
壇ノ浦でまとめてみます。
壇ノ浦は、源平合戦の平家終焉の地であると同時に、
幕末には長州藩が英・仏・蘭・米4か国連合艦隊と戦って
ボロ負けした馬関でもあります。
「関門トンネル人道」 を出てすぐの所には、天保製長州砲
を再現したものが並んでいます。お台場のよりデカい!
(煙が出とる〜! 100円入れてくれた人、ありがとう)
砲台を背に門司港を眺めていたら、後ろから 「どっかーん」
と大きな音がして、ふいをつかれたから本来より大きく
感じたのかもしれませんが、少なくとも田んぼの雀脅しより
デカい音がしました。
音の方に顔を向けると、なんと砲身からちゃんと煙が出て、
それらしい雰囲気を醸しているではありませんか!?
どうやら100円入れると、このオプションを楽しめるようです。
馬関から、西へ進むと、高台に 「下関春帆楼本店」 が
あり、その下には 「本陣伊藤邸址」。
坂本龍馬がお龍と暮らした場所として、二人の顔出し看板
が、ぽつーんと置かれていました。背景は駐車場。
置く方向、もう少し考えた方がいいだろ?
土佐者は眼中にない、維新150年を祝う長州なのでした。
「本陣伊藤邸址」 についての説明板によると、伊藤家は
鎌倉時代から続く下関屈指の名家で、幕末の頃の当主・
杢之助は吉田松陰と交際し、助太夫は坂本龍馬を支援。
中でも、龍馬の晩年とも言える慶応2・3年、龍馬は
伊藤家を活動の拠点にしていたそうです。
龍馬と助太夫との関係は、龍馬が薩長同盟実現に向けて
下関を訪ねた慶応元年(1865年)に始まり、以来、
龍馬は下関を訪ねるたびに伊藤家を寄宿先とし、慶応3年
2月10日からは同邸の一室 「自然堂」 を借り受けて、
お龍と生活していました。龍馬の朝帰りにお龍が激怒したり、
夫婦で歌会に参加したというエピソードも残っています。
思ったより、長州での生活は京都や長崎よりも安全だった
のかもしれません。
西郷さんと違って、新し物好きな龍馬は、長州でも写真を
撮っていたようで、晩年の割には他のいくつかの写真に
比べて、少し若く見える気がしました。
(慶応2年の新婚旅行像は鹿児島にあります。龍馬が小柄)
まあ、あとは龍馬関係は、福山市鞆の浦にあるという
潜伏先 「桝谷清右衛門宅」 に行けば、ほぼクリアかな?
ちなみに、自分のブログを見てみると、あたかも龍馬
ファンのようなことになっていますが、私が幕末の志士で
一番好きなのは、高杉晋作です(笑)。
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◇龍馬の江戸生活に想いを馳せて…
(http://nureinmal.jugem.jp/?eid=488)
◇立会川の 「坂本龍馬像」 と 「浜川砲台跡」
(http://nureinmal.jugem.jp/?eid=1303)
◇龍馬にゆく!〜風頭公園編〜
(http://nureinmal.jugem.jp/?eid=3294)
◇龍馬にゆく!〜亀山社中編〜
(http://nureinmal.jugem.jp/?eid=3295)
◇龍馬にゆく!〜丸山公園編〜
(http://nureinmal.jugem.jp/?eid=3296)